2002.11.26
ルモンド。犬の家畜化は東アジアにおいて最初に始まったとする研究結果が発表されました。これはすごいことです。地球上最初の土器も東アジアで(それも日本列島で)発掘されています。モンゴロイドは地球上で一番古い「文明人」なのです。(もっとも古いだけではあまり自慢にはなりませんが。シーラカンスの例もあるし)
Le chien est devenu "meilleur ami de l'home" en Asie orientale(2002.11.24)
犬は、東アジアにおいて「人間の最良の友」となった
それは、アン王女が11月21日、英国の王室メンバーとしては1649年のチャールズ1世以来はじめて、その愛犬のブルドッグ・テリアが子供も襲ったとして裁判所の被告席に立ったのよりも、以前のことである。
それはまた、昨年のクリスマスにアイボなどのロボット犬が流行ったよりも前のことである。名犬リンチンチンやミルーなどよりも前・・・、それは1万5000年から4万年前に東アジアのどこかで起こったことなのである。そこにおいて、はじめて、狼から派生した犬が人間に飼い慣らされ、その子孫達がやがてユーラシア大陸、新大陸へと広がってきたのだ。このシナリオは二つの遺伝学者達のチームが記述し、11月22日付の雑誌「サイエンス」に掲載された。
今日、犬には多くの種類がある。小さいのや大きいの、毛むくじゃらのもあれば毛の短いのも、頬が垂れたのも鼻がとんがったのも、むく犬のようにおとなしいのもブルドッグのようにケンカ好きなのも、いろいろである。国際犬協会では300種類の犬があるという。それも血統書付のものだけでの話し。こんなに種類が多いので、ダーウィンも「犬の祖先を正確に知ることは、ほとんど不可能なことだ」と書いたぐらいである。事実、狼とコヨーテとジャッカルのうち、どれが犬の祖先なのか、どうも狼らしいとは思われるのだが、正確には分からなかった。1997年になって、はじめて「犬狼」というものを祖先と決定することとなったくらいである。
カリフォルニア大学のチャールズ・ヴィラのチームは、世界中に広がる27群から162の狼を選び、それをコヨーテとジャッカル、それに67種の140匹の犬のDNA配列を比較した。その結果、DNAミトコンドリアは犬と狼ではわずか1%の差違しかないことが分かり、狼が犬の唯一の祖先であることが確定されたのである。
その研究によれば、最初の野生の犬が出現したのは約13万5000年前、すなわち人間による犬の飼い慣らしより10万年前とのことである。コヨーテのジャッカルは狼から派生したが、分岐はもっと以前(約100万年前)と考えられ、犬とは関係ないとのこと。
しかし、どこで犬は狼から分岐したのか。これまたDNAミトコンドリアの出番である。ストックホルムの王立科学研究所のピーター・サヴォレネン氏によれば、DNAの「コントロール領域」という部分で突然変異の蓄積がなされるのであるが、それを東アジア、ヨーロッパ、アフリカ、アメリカ極北からの654匹の犬について調べたところ、凡ての犬でほとんど共通の遺伝的特徴が見られたが、驚くことに、東アジアの犬において遺伝的な多様性が一番広く、一番進化していることが観察されたとのことである。
「これまでわれわれは中東地域で犬の家畜化が始まったと、考古学の発掘結果や他の家畜の多さから考えてがちであった」とサヴォレネン氏は言う。しかし遺伝子は一番信頼できるので上記の結論となった。東アジアの人間はただ犬を最初に家畜化したばかりではなく、多くの違う種類の狼から犬をブリーディングすることもしている。だからこれは「突然変異の偶然」ではないとサヴォレネン氏は言う。この犬の家畜化は約1万5000年前のことであると。
また、チャールズ・ヴィラ氏のチームは、アメリカ大陸の犬についても興味を持って調べた。アメリカ大陸の犬はアメリカ土着の狼から家畜化されたものか、それとも犬としてアメリカ大陸に入ってきたものかという点に興味を持ったのだ。これもDNA配列を調べると、旧大陸の犬も新大陸の犬も祖先は同じであることが分かった。だから犬は、最初にシベリアやモンゴルからベーリング海峡を渡ってアメリカに入ってきたアメリカインディアンの祖先達と一緒に、約1万3000年前に新大陸に渡ってきたことが分かった。かれは犬の家畜化は4万年前あたりだろうという。
この研究結果を読むと、現代の犬の種類の多様性は、最近数世紀の飼育手法によるもので、もともとの原種の相違によるものでないことが分かる。でも、まったくのところ、何故人間は犬を友とすることが有用であると判断したのだろうか? それはDNA鑑定でも分からない。しかし18世紀のフランスの博物学者ビュフォンは、当時の人類中心主義調で、こう書いている。「どうして人類は、犬の協力なくして、他の動物たちを征服し屈服させ奴隷化することが出来たであろうか。安全を確保し、世界を人間中心にまとめていくために、人間はまず動物の中に味方を求めねばならなかった。優しく撫でてやるとくっついてきて服従する動物を味方に付ける必要があった」ということである。
Catherine Vincent
2002年11月26日火曜日
2002年11月25日月曜日
珊瑚集:仇敵 シヤアル・ボオドレヱル
『珊瑚集』ー原文対照と私註ー
永井荷風の翻訳詩集『珊瑚集』の文章と原文を対照表示させてみました。翻訳に当たっての荷風のひらめきと工夫がより分かり易くなるように思えます。二三の 私註と感想も書き加えてみました。
シャルル・ボードレール
原文 荷風訳 L'Ennemi Charles Baudelaire
Ma jeunnesse ne fut qu'un ténébreux orage,
Traversè çà et là par de brillants soleils ;
Le tonnerre et la pluie ont fait un tel ravage,
Qu'il reste en mon jardin bien peu de fruits vermeils.
Voilà que j'ai touchè l'automne des idées,
Et qu'il faut employer la pelle et les râteaux
Pour rassembler à neuf les terres inondées,
Où l'on creuse des tous grands comme de tombeaux
Et qui sait si les fleurs nouvelles que je rêve
Trouveront dans ce sol lavé comme une grève
Le mystique aliment qui ferait leur vigueur ?
- O douleur ! ô douleur ! Le temps mange la vie
Et l'obscur Ennemi qui nous ronge le cœur
Du sang que nous perdons croît sst se fortifie !
(Les Fleurs du Mal) 仇敵 シヤアル・ボオドレヱルわが青春は唯だ其処此処に照日の光漏れ落し
暴風雨の闇に過ぎざりき。
鳴る雷のすさまじさ降る雨のはげしさに、
わが庭に落残る紅の果実とても稀なりき。
されば今、思想の秋に近きて、
われ鋤と鍬とにあたらしく、
洪水の土地を耕せば、洪水の土地に
墓と見る深き穴のみ穿ちたり。
われ夢む、新なる花今更に、
洗はれて河原となりしかかる地に、
生茂るべき養ひを、いかで求め得べきよ。
ああ悲し、ああ悲し。「時」生命を食ひ、
暗澹たる「仇敵」独り心にはびこりて、
わが失える血を吸い誇り栄ゆる。
「さ れば今、思想の秋に近きて」これを読めば、本当に「ああ悲し、ああ悲し」と感じます。でも荷風がこれを訳したのはまだ20代でした。すでに心は老人だっ た。老人の美学に憧れている。ただ事ではありませんね。
余丁町散人 (2002.11.25)
--------
訳詩:『珊瑚集』籾山書店(大正二年版の復刻)
原詩:『荷風全集第九巻付録』岩波書店(1993年)
珊瑚集:「秋の歌」シャルル・ボードレール
『珊瑚集』ー原文対照と私註ー
永井荷風の翻訳詩集『珊瑚集』の文章と原文を対照表示させてみました。翻訳に当たっての荷風のひらめきと工夫がより分かり易くなるように思えます。二三の 私註と感想も書き加えてみました。
「秋の歌」シャルル・ボードレール
原文 荷風訳 Chant d'Automne Charles Baudelaire I
Bientôt nous plongerons dans les froides ténèbres ;
Adieu, vive clarté de nos étés trop courts !
J'entends déjà tomber avec des chocs funèbres
Le bois retentissant sur le pavé de cours.
Tout l'hiver va rentrer das mon être : colère,
Haine, frissons, horreur, labeur dur et forcé,
Et, comme le soleil dans son enfer polaire,
Mon cœur ne sera plus qu'un bloc rouge et glacé.
J'écoute en frémissant chaque bûche qui tombe ;
L'echafaud qu'on bâtit n'a pas d'écho plus sourd.
Mon esprit est pareil à la tour qui succombe
Sous les coups du bélier infatigable et lourd.
Il me semble, bercé par ce choc monotone,
Qu'on cloue en grande hâte un cercueil quelque part,
Pour qui ? - C'était hier l'été ; voici l'automne !
Ce bruit mystérieux sonne comme un départ.
II
J'aime de vos longs yeux la lumiére verdâtre,
Douce beauté, mais tout aujourd'hui m'est amer,
Et rien, ni votre amour, ni le boudoir, ni l'âtre,
Ne me vau le soleil rayonnant sur la mer.
Et pourtant aimez-moi, tendre cœur ! soyez mère,
Même pour un ingrat, même pour un méchant ;
Amante ou sœur, soyez la douceur éphemère
D'un glorieux automne ou d'un soleil couchant.
Courte tâche ! La tombe attend ; elle est avide !
Ah ! lassez-moi, mon front posé sur vos genoux,
Goûter, en regrettant l'été blanc et torride,
De l'arrière-saison le rayon jaune et doux !
(Les Fleurs du Mal) 秋の歌 シャアル・ボオドレエル一
吾等忽ちに寒さの闇に陥らん、
夢の間なりき、強き光の夏よ、さらば。
われ既に聞いて驚く、中庭の敷石に、
落つる木片のかなしき響。
冬の凡ては ー 憤怒と憎悪、戦慄と恐怖や、
又強ひられし苦役はわが身の中に帰り来る。
北極の地獄の日にもたとえなん、
わが心は凍りて赤き鐵の破片よ。
をののぎてわれ聞く木片の落つる響は、
断頭台を人築く音なき音にも増(まさ)りたり。
わが心は重くして疲れざる
戦士の槌の一撃に崩れ倒るる観楼かな。
かかる惰き音に揺られ、何処にか、
いとも忙しく柩の釘を打つ如き・・・・そは、
昨日と逝きし夏の為め。秋來ぬと云ふ
この怪しき聲は宛(さなが)らに、死せる者送出す鐘と聞かずや。
二
長き君が眼の緑の光のなつかしし。
いと甘かりし君が姿など今日の我には苦き。
君が情も、暖かき火の辺や化粧の室も、
今の我には海に輝く日に如かず。
さりながら我を憐れめ、やさしき人よ。
母の如かれ、忘恩の輩、ねぢけしものに。
恋人か将た妹か。うるはしき秋の栄や、
又沈む日の如、束の間の優しさ忘れそ。
定業は早し。貪る墳墓はかしこに待つ。
ああ君が膝にわが額を押し当てて、
暑くして白き夏の昔を嘆き、
軟くして黄き晩秋の光を味はしめよ。
陰鬱な冬を迎える寂しい歌です。東京はまだいいのですが、パリの冬はとても重苦しい。でもどこにでも暖房が入っているので、生活環境としては一昔前の東京 よりはよほど過ごしやすかったと思う。「中庭の敷石に、落つる木片のかなしき響」とあるのは冬に備えて薪を中庭の隅に投げ込む音のことです。「君が情も、 暖かき火の辺や化粧の室も」夏の海の太陽に「如かず」というのは、ちょっとオーバーな気がしますが、夏が東京ほど過ごしにくくないからなんでしょうね。
余丁町散人 (2002.11.25)
--------
訳詩:『珊瑚集』籾山書店(大正二年版の復刻)
原詩:『荷風全集第九巻付録』岩波書店(1993年)
2002年11月21日木曜日
珊瑚集:暗黒 シャアル・ボオドレヱル
『珊瑚集』ー原文対照と私註ー
永井荷風の翻訳詩集『珊瑚集』の文章と原文を対照表示させてみました。翻訳に当たっての荷風のひらめきと工夫がより分かり易くなるように思えます。二三の 私註と感想も書き加えてみました。
「暗黒」シャルル・ボードレール
原文 荷風訳 Obsession Charles Baudelaire
Grands bois, vous m'effrayez comme des cathédrales ;
Vous hurlez comme l'orgue ; et dans nos cœurs maudits,
Chambles d'éternel deuil oû vibrent de vieux râles
Réponent les échos de vos De profundis.
Je te hais, Océan ! tes bonds et tes tumultes,
Mon esprit les retrouve en lui ; ce rire amer
De l'home vaincu, plein de sanglots et d'insultes,
Je l'entends dans le rire énorme de la mer.
Comme tu me plairais, ô nuit ! san ces étoiles
Dont la lumière parle un langage connu !
Car je cherche le vide, et le noir, et le nu !
Mais les ténèbres sont elles-mêmes des toiles
Où vivent, jaillisant de mon œil par milliers,
Des êtres disparus aux regards familiers.
(Les Fleurs du Mal) 暗黒 シャアル・ボオドレヱル森よ、汝、古寺の如くに吾を恐ろしむ。
汝、寺の楽の如く吠ゆれば、呪われし人の心、
臨終の喘咽聞ゆる永久の喪の室に、
DE PROFONDES 歌う聲、山彦となりて響くかな。
大海よ、われ汝を憎む。狂ひと叫び、
吾が魂は、そを汝、大海の聲に聞く。
辱めと涙に満ちし敗れし人の苦笑ひ、
これ、おどろしき海の笑ひに似たらずや。
されば夜ぞうれしき。空虚と暗黒と
赤裸々求むる我なれば、星の光さえ覚えある言葉となりて
われに語ふ其の光さえなき夜ぞうれしき。
暗黒の其の面こそは絵絹なりけれ。
亡びたるものども皆覚えある形して
わが眼より數知れず躍りて出づれば。
ちょっと外れますけど、フランスの赤ちゃんってのは、部屋を真っ暗にさせてひとりで寝かすんです。慣れてくると暗くしないと寝ないし、暗い方が安心するよ うになる。何も恐ろしいものが見えない方が怖くないし、楽しい夢が見られるようなのです。「されば夜ぞうれしき」なんです。ボードレールもそういう赤ちゃ んだったのでしょうね。
荷風は "le nu" を「赤裸々」と訳しています。ちょっとポルノっぽくって、これは荷風の obsession だとおもう。
余丁町散人 (2002.11.21)
--------
訳詩:『珊瑚集』籾山書店(大正二年版の復刻)
原詩:『荷風全集第九巻付録』岩波書店(1993年)
2002年11月17日日曜日
Le Monde : シャーロック・ホームズ:推理小説なのか福音書なのか?
2002.11.17
ルモンド紙より、今日はシャーロック・ホームズについて。作者ドイルは聖書から多分に影響を受けたとするバチカン関係者の新説が発表されたとのこと。先日ご紹介したアルカイダの話しといい今日のホームズの話といい、誰もが「本家はうちだ」と我田引水したくなるもののようです。笑えます。
ロンドンのタイムズ紙のインタビューを受け、ローマ教皇大学の哲学の教授であるマリオ・パルマロは、ドイルは、意識的にまた無意識的に、幼いときに受けたイエズス会の教育により影響されていたと断言する。
でもドイルは1859年に生まれ、1876年にエジンバラ大学の医学部に在籍中にカトリックを放棄している。しかしマリオ・パルマロは「ドイルは最後までカトリックと格闘し続けていた」とする。かれは、その著書『超自然、ワトソン君:シャーロック・ホームズと神の事件』で「福音書には良い推理小説を構成するすべての要素、たとえば死体、人殺し、死体の奇跡的な消滅などの要素が含まれている」と断言するのだ。
もっと具体的に言えば「疑いなく、バスカーヴィル家の犬は悪魔の力を代表するもの」であり、「小説に度々出てくるグリペン・ミールという名前はアングロサクソン語で悪魔という言葉から由来したものである」とのこと。
しかし、シャーロック・ホームズ博物館長のオノーレ・リリー氏によれば、ドイルが聖書に影響されたという話はドイルが信仰を捨てた以上あり得ないのではないかという。しかしバチカンの学者は続ける。「ギリシャ語通訳」の中でホームズが兄のマイクロフトとする会話は、ヨハネ伝の中でのキリストとニコデムスの問答形式と非常に似ていると。「問答リズムが酷似している」とバチカン学者は言う。
さらに推理小説の結末でホームズが遂に真理を理解するという締めくくりも、マリオ・パルマロによれば「聖女マリ・マドレーヌの直感とひらめき」と同じであるという。というものの、ホームズの伝記作家やホームズ専門家の間では、(この新説は)まだまだ疑わしいとされている。ドイルが福音書を説教してたんですって? そんな初歩的な事じゃないんじゃないかしら。
ルモンド紙より、今日はシャーロック・ホームズについて。作者ドイルは聖書から多分に影響を受けたとするバチカン関係者の新説が発表されたとのこと。先日ご紹介したアルカイダの話しといい今日のホームズの話といい、誰もが「本家はうちだ」と我田引水したくなるもののようです。笑えます。
Sherlock Homes : polar ou Evangiles ? (2002.11.13)
シャーロック・ホームズ:推理小説なのか福音書なのか?
著者のコナン・ドイルはキリスト教とは対立してはいたものの、さるバチカンの学者によれば、シャーロック・ホームズが活躍する小説は部分的にテーマと筋書きにおいて聖書を下敷きにしたものであるとのことである。ロンドンのタイムズ紙のインタビューを受け、ローマ教皇大学の哲学の教授であるマリオ・パルマロは、ドイルは、意識的にまた無意識的に、幼いときに受けたイエズス会の教育により影響されていたと断言する。
でもドイルは1859年に生まれ、1876年にエジンバラ大学の医学部に在籍中にカトリックを放棄している。しかしマリオ・パルマロは「ドイルは最後までカトリックと格闘し続けていた」とする。かれは、その著書『超自然、ワトソン君:シャーロック・ホームズと神の事件』で「福音書には良い推理小説を構成するすべての要素、たとえば死体、人殺し、死体の奇跡的な消滅などの要素が含まれている」と断言するのだ。
もっと具体的に言えば「疑いなく、バスカーヴィル家の犬は悪魔の力を代表するもの」であり、「小説に度々出てくるグリペン・ミールという名前はアングロサクソン語で悪魔という言葉から由来したものである」とのこと。
しかし、シャーロック・ホームズ博物館長のオノーレ・リリー氏によれば、ドイルが聖書に影響されたという話はドイルが信仰を捨てた以上あり得ないのではないかという。しかしバチカンの学者は続ける。「ギリシャ語通訳」の中でホームズが兄のマイクロフトとする会話は、ヨハネ伝の中でのキリストとニコデムスの問答形式と非常に似ていると。「問答リズムが酷似している」とバチカン学者は言う。
さらに推理小説の結末でホームズが遂に真理を理解するという締めくくりも、マリオ・パルマロによれば「聖女マリ・マドレーヌの直感とひらめき」と同じであるという。というものの、ホームズの伝記作家やホームズ専門家の間では、(この新説は)まだまだ疑わしいとされている。ドイルが福音書を説教してたんですって? そんな初歩的な事じゃないんじゃないかしら。
Sylvie Chayette
〔再録〕『珊瑚集』ー原文対照と私註ー 憂悶 シャアル・ボオドレヱル
シャルル・ボードレール
『珊瑚集』ー原文対照と私註ー
永井荷風の翻訳詩集『珊瑚集』の文章と原文を対照表示させてみました。翻訳に当たっての荷風のひらめきと工夫がより分かり易くなるように思えます。二三の 私註と感想も書き加えてみました。
原文荷風訳 Spleen Charles Baudelaire
Quand le ciel bas et lourd pèse comme un couvercle
Sur l'esprit gémisssant en proie aux longs ennuis,
Et que de l'horizon embrassant tout le cercle
Il nous verse un jour noir plus triste que les nuits ;
Quand la terre est changée en un cachot humide,
Où l'Espérance, comme une chauve-souris,
S'en va battant les murs de son aile timide
Et se cognat la tête à des plafonds pourrris ;
Quand la pluie étalant ses immenses traînées
D'une vaste prison imite les barreaux,
Et qu'un peuple muet d'inflâmes araignées
Vient tendreses filets au fond de nos cerveaux,
Des cloches tot à coup sautent avec furie
Et lancent vers le ciel un affreux hurlement,
Aisi que des esprits errants et sans patrie
qui se mettent à geindre opiniâtrément,
- Et de longs corbillards, sans tambours ni musique,
Défilent lentment dans mon àme ; Espoir,
Vaicu, pleure, et l'Angoisse atroce, despotique,
Sur mon crâne incliné plante son drapeau noir.
(Les Fleurs du Mal) 憂悶 シャアル・ボオドレヱル
大空は重く垂れ下がりて、物覆ふ蓋の如く
久しくもいわれなき憂悶に嘆くわが胸を押へ、
夜より悲しく暗き日の光、
四方閉す空より落つれば、
この世はさながらに土の牢屋(ひとや)か、
蟲喰みの床板に頭打ち叩き、
鈍き翼に壁を撫で、
蝙蝠の如く「希望(のぞみ)」は飛び去る。
限りなく引續く雨の糸は
ひろき獄屋(ひとや)の鐵棒に異らず、
沈黙のいまわしき蜘蛛の一群、
來りてわが腦髓に網をかく。
かかる時なり。寺々の鐘突如としておびえ立ち、
住家なく彷徨ひ歩く亡魂(なきたま)の、
固執(しうね)くも嘆き叫ぶごと
大空に向かひて傷しき聲を上ぐれば、
送りる太鼓も楽もなき柩の車は
吾が心の中をねり行きて、
欺かれし「希望」は泣き暴悪の「苦悩」は
うなだれるる我が頭の上に黒き頭の上に黒き旗を立つるかな。
『珊瑚集』の二番目の詩です。
陰鬱な詩ですね。低く雲が垂れこみ、暗くて寒い冬のパリならではのもの凄さがあります。でも荷風はこのような陰鬱な冬を経験しなかった。アメリカからフラ ンスに着いたのは7月で、すぐリヨンに向かいます。リヨンでは冬を越しましたが、比較的フランス南部に位置する町ですから、冬はパリほど陰鬱ではありませ ん。リヨンからまたパリに來来るのは翌年の3月28日。パリを去るのが5月28日です。荷風はとてもいい季候のパリしか見ていないのです。
何故荷風はこの陰惨な詩に感動したのでしょう。思うに、荷風は実際このような陰鬱な気持ちでフランスに滞在したのではないかと思 います。心弾ませて念願のフランス行きを果たしたものの、アメリカに残してきたイデスの事を思い、罪の意識を感じながら悶々とした生活を送ったと考えられ ないでしょうか。荷風のイデスに対する気持ちは、ほとんど彼の一生につきまとっていたのではないでしょうか。その後の日本での派手な女性関係は所詮イデス との関係を超える物ではなかった。それが一点。もう一つは、日本への帰国時期がどんどん迫ってくることです。日本に帰らなければならない、日本の制度に組 み込まれなければならないと言う事実が、一つの強迫観念となって心に重くたれ込めていたのだと思います。
荷風の『ふらんす物語』が多くの素晴らしい描写はあるものの、全般的に鬱の気分が強く、『あめりか物語』ほどの精彩を欠くのは不思議な事実です。あれほど フランスに憧れていたのですから、当然『ふらんす物語』の方が生き生きして然るべきところなのに、実際は反対になっている。荷風をめぐる女性関係の分析 は、往々にしてこのイデスを軽視しているように思います。なんと言ってもイデスは、荷風にとってはじめての「長い期間にわたって」一緒に生活した相手なの ですから。少年時の恋は別にして荷風にとってはじめての「大人の恋」だった。荷風は一生忘れなかったと思います。
余丁町散人 (2002.11.17)
--------
訳詩:『珊瑚集』籾山書店(大正二年版の復刻)
原詩:『荷風全集第九巻付録』岩波書店(1993年)
2002年11月16日土曜日
デフレから脱出するための具体策
2002.11.16
先月の「視点」でマルクスモデルを使ってデフレスパイラルの原因究明とその対策を考えてみたけれど、ちょっと評判が悪かったみたい。お給料を減らせとは何事ぞとの苦情が寄せられました。だから利害関係者は困るんです。経済の議論は私利私欲を離れてやらねばならないんですがね。でもたしかに純粋理論的(悪く言えば知的遊戯的)な議論だったことは認めます。今回はもうちょっと具体的に何をするべきか考えてみます。三つあります。
一つには、インフレ期待を醸成することです。デフレスパイラルはみんなが更にデフレが進行するだろう(将来物価が下がるだろう)と確信することから生じるわけで、みんなが将来物価が上がることは確実という認識を持てば直ちに投資活動は再開されます。これは定理的な問題で正しいかどうかの議論の余地はありません。でもどうやってインフレ期待を醸成するか。これが問題です。考えますに円安誘導しかないでしょう。日銀は直ちにドル建ての米国国債を大量に買い付けるべきです。そして円安誘導の覚悟を内外に示す。外国への配慮が必要とか馬鹿なことを心配している場合じゃありません。第一、米国は日本がこのような体たらくで低迷を続けられるよりはドル高を歓迎するという立場ですから文句は言わないはずです。中国の人民元はだいたい安すぎるのだから中国から文句を言われる筋合いはない。東南アジアの国々にしても、日本のデフレスパイラルが続いて困っているわけですから日本の景気回復を歓迎します。それなのに外国への気遣いから円安誘導に消極的な日本人がいますが、本心は、そんなきれいごとではなく自分がタンス預金している円建て資産の(ドル評価での)目減りを心配しているからに過ぎません。断固やるべしです。政府日銀さえその覚悟を示せば内外の投資家は一斉に円を売ってドルを買います。インフレ期待が一挙に具現化します。投資は再開されます。
二つ目は、国内公共事業です。公共事業と言えば拒絶反応を示す人がいますが、やらなければならないものはやらねばならない。具体的には都市部の電柱電線の地中化です。あんなみにくい電柱を外に出して都市景観を著しく醜悪なものとしている国は、先進国の中では日本だけです。いずれやらねばならないものなら不況である現時点で直ちにやりましょう。ただ財政赤字の問題がある。また税金で国民からお金を吸い上げて公共事業をすれば差し引き同じことで景気刺激効果はありません。そこでどうするかですが、電柱の地中化は電力会社に特別の電力債を発行させてそのお金でやるのです。その電力債には政府が保証を付けてもいいでしょう。また相続税の対象から外すとかの税制優遇措置も講ずるべきです。そうすればタンス預金で眠っている個人金融資産の相当部分は電力債購入に向かうでしょう。海外にこっそり隠そうとしていたお金も国内にとどまるかも知れません。いずれにしてももともと税金の取りようがなかったお金ですから、少々の税制優遇措置をとったところで、国税当局として期待税収の減少とはならないはずです。一銭の税金も使うことなく、電柱地中化を義務付ける法律を作るだけで巨額の「公共的」事業が推進出来るのです。個人金融資産の1%がそれにまわったとして14兆円です。十分な景気浮揚効果を経済にもたらします。
三つ目は、年金制度の見直しと確定です。公的年金ではゆとりのある生活を送ることが出来ない上に、その公的年金制度が維持されるかどうかすらはっきりしない状況下、国民は貯蓄に走り自己防衛を図る以外道はありません。更に世代間の不公平感が高まっており、世代間の醜い損得勘定の議論ばかりが目立ち、いずれは年金制度は崩壊するだろうとの予想の元に若者は年金システムから離脱をはじめています。老後に対する不安は高年者以上に若年層で強いと言えるでしょう。どういう制度でもいい。とにかくどういう状況になろうとサステイナブルな年金制度に改めて、これを将来に渡って一切変更しない事を国民に示すべきです。それがあってはじめて若い世代も含めて国民は安心して消費が出来ることになるのです。制度変更によって、現在の受益者(中高年)が多少の損害を被ることになっても、それは国家百年の計のために我慢すべきでしょうが、基本的には多少の負担増が発生してもいまの若年層が貯金なしでゆとりのある老後を送りうるだけの西欧並みの豊かな年金制度とするべきです。現在の公的年金だけでは生活できないと言うのが常識化していますが、こんな制度は先進国として恥ずかしいと言うべきでしょう。現在の年寄りは多少のことは我慢できますが、将来の制度ではもっと給付を充実させるべきだと思います。老後の安心なくして心豊かな現役生活はないのです。
以上が三つの提案です。どうしてこんな簡単なことがすぐ実施できないのでしょうか。当たり前のことを当たり前にやれないこの国のシステム疲労に深い絶望感を感じる今日この頃です。
先月の「視点」でマルクスモデルを使ってデフレスパイラルの原因究明とその対策を考えてみたけれど、ちょっと評判が悪かったみたい。お給料を減らせとは何事ぞとの苦情が寄せられました。だから利害関係者は困るんです。経済の議論は私利私欲を離れてやらねばならないんですがね。でもたしかに純粋理論的(悪く言えば知的遊戯的)な議論だったことは認めます。今回はもうちょっと具体的に何をするべきか考えてみます。三つあります。
一つには、インフレ期待を醸成することです。デフレスパイラルはみんなが更にデフレが進行するだろう(将来物価が下がるだろう)と確信することから生じるわけで、みんなが将来物価が上がることは確実という認識を持てば直ちに投資活動は再開されます。これは定理的な問題で正しいかどうかの議論の余地はありません。でもどうやってインフレ期待を醸成するか。これが問題です。考えますに円安誘導しかないでしょう。日銀は直ちにドル建ての米国国債を大量に買い付けるべきです。そして円安誘導の覚悟を内外に示す。外国への配慮が必要とか馬鹿なことを心配している場合じゃありません。第一、米国は日本がこのような体たらくで低迷を続けられるよりはドル高を歓迎するという立場ですから文句は言わないはずです。中国の人民元はだいたい安すぎるのだから中国から文句を言われる筋合いはない。東南アジアの国々にしても、日本のデフレスパイラルが続いて困っているわけですから日本の景気回復を歓迎します。それなのに外国への気遣いから円安誘導に消極的な日本人がいますが、本心は、そんなきれいごとではなく自分がタンス預金している円建て資産の(ドル評価での)目減りを心配しているからに過ぎません。断固やるべしです。政府日銀さえその覚悟を示せば内外の投資家は一斉に円を売ってドルを買います。インフレ期待が一挙に具現化します。投資は再開されます。
二つ目は、国内公共事業です。公共事業と言えば拒絶反応を示す人がいますが、やらなければならないものはやらねばならない。具体的には都市部の電柱電線の地中化です。あんなみにくい電柱を外に出して都市景観を著しく醜悪なものとしている国は、先進国の中では日本だけです。いずれやらねばならないものなら不況である現時点で直ちにやりましょう。ただ財政赤字の問題がある。また税金で国民からお金を吸い上げて公共事業をすれば差し引き同じことで景気刺激効果はありません。そこでどうするかですが、電柱の地中化は電力会社に特別の電力債を発行させてそのお金でやるのです。その電力債には政府が保証を付けてもいいでしょう。また相続税の対象から外すとかの税制優遇措置も講ずるべきです。そうすればタンス預金で眠っている個人金融資産の相当部分は電力債購入に向かうでしょう。海外にこっそり隠そうとしていたお金も国内にとどまるかも知れません。いずれにしてももともと税金の取りようがなかったお金ですから、少々の税制優遇措置をとったところで、国税当局として期待税収の減少とはならないはずです。一銭の税金も使うことなく、電柱地中化を義務付ける法律を作るだけで巨額の「公共的」事業が推進出来るのです。個人金融資産の1%がそれにまわったとして14兆円です。十分な景気浮揚効果を経済にもたらします。
三つ目は、年金制度の見直しと確定です。公的年金ではゆとりのある生活を送ることが出来ない上に、その公的年金制度が維持されるかどうかすらはっきりしない状況下、国民は貯蓄に走り自己防衛を図る以外道はありません。更に世代間の不公平感が高まっており、世代間の醜い損得勘定の議論ばかりが目立ち、いずれは年金制度は崩壊するだろうとの予想の元に若者は年金システムから離脱をはじめています。老後に対する不安は高年者以上に若年層で強いと言えるでしょう。どういう制度でもいい。とにかくどういう状況になろうとサステイナブルな年金制度に改めて、これを将来に渡って一切変更しない事を国民に示すべきです。それがあってはじめて若い世代も含めて国民は安心して消費が出来ることになるのです。制度変更によって、現在の受益者(中高年)が多少の損害を被ることになっても、それは国家百年の計のために我慢すべきでしょうが、基本的には多少の負担増が発生してもいまの若年層が貯金なしでゆとりのある老後を送りうるだけの西欧並みの豊かな年金制度とするべきです。現在の公的年金だけでは生活できないと言うのが常識化していますが、こんな制度は先進国として恥ずかしいと言うべきでしょう。現在の年寄りは多少のことは我慢できますが、将来の制度ではもっと給付を充実させるべきだと思います。老後の安心なくして心豊かな現役生活はないのです。
以上が三つの提案です。どうしてこんな簡単なことがすぐ実施できないのでしょうか。当たり前のことを当たり前にやれないこの国のシステム疲労に深い絶望感を感じる今日この頃です。
2002年11月14日木曜日
〔再録〕『珊瑚集』私註 死のよろこび シャアル・ボオドレヱル
『珊瑚集』ー原文対照と私註ー
永井荷風の翻訳詩集『珊瑚集』の文章と原文を対照表示させてみました。翻訳に当たっての荷風のひらめきと工夫がより分かり易くなるように思えます。二三の 私註と感想も書き加えてみました。
シャルル・ボードレール
原文荷風訳 Le Mort joyeux Charles BaudelaireDans une terre grasse et plein d'escargots
Je veux creuser moi-même un fosse profonde,
Où je puisse â loisir étaler mes vieux os
Et dormir dans l'oubli comme un requin dans l'onde.
Je hais les testaments et je hais les tombeaux ;
Plutôt que d'implorer une larme du monde,
Vivant, j'aimerais mieux inviter les corbeaux
A saigner tous les bouts de ma carcasse immonde.
O vers ! noirs compagnons sans oreille et sans yeux,
Yoyez venir à vous un mort libre et joyeux ;
Philosophes viveurs, fils de la pourriture,
A travers ma ruine allez donc sans remords,
Et dites-moi s'il est encor quelque torture
Pour ce vieux corps sans âme et mort parmi les morts !
(Les Fleurs du Mal) 死のよろこび シャアル・ボオドレヱル蝸牛葡ひまはる粘りて湿りし土の上に
底いと深き穴をうがたん。泰然として、
われ其処に老いさらぼひし骨を横へ、
水底に鱶の沈む如忘却の淵に眠るべう。
われ遺書を厭み、墳墓をにくむ。
死して徒に人の涙を請はんより、
生きながらにして吾寧ろ鴉をまねぎ、
汚れたる脊髄の端々をついばましめん。
おお蛆虫よ。眼なく耳なき暗黒の友、
君が為に腐敗の子、放蕩の哲学者、
よろこべる無頼の死人は来る。
わが亡骸にためらふ事なく食入りて
死の中に死し、魂失せし古びし肉に、
蛆虫よわれに問へ。猶も悩みのありやなしやと。
『珊瑚集』の巻頭を飾る詩です。これを最初に持ってきたのは荷風として考えるところがあったと思います。当然自分に引き比べていた。「腐敗の子、放蕩の哲 学者、よろこべる無頼」。若き荷風はこれこそ自分のことだと感じたのは自然です。
"Je veux creuser moi-même un fosse profonde" の訳の後に、行を変えず荷風は「泰然として」という言葉を付け加えていますが、それは次の行の「横へ」にかかる言葉。語数の関係でしょうね。そのほか「腐 敗の子、放蕩の哲学者、よろこべる無頼の死人」と言葉の並び方が原文とは逆になっています。これは動詞の前に「無頼の死人」を持ってくるためなんでしょう が、芸が細かい。
最後の行。蛆虫よ「われに問へ」と訳してますが、どうなんでしょう? (まだ死体の中に苦しみが残っているかどうか)「われに言へ(教えろ)」だと思うん だけれど、何か理由があるのかな。よく分からない。
飯島耕一はこの荷風訳を評して「翻訳技術者の手になる訳ではなく、この通り実行した人の手になる訳」としています。「生きながらにして吾寧ろ鴉をまねき」 という恐ろしい言葉を荷風はそのまま実行しました。「陋巷に窮死する」というのは荷風の若いときからの確信でもあったように思います。
つくづく思うんですけど文語はいいですね。特にボードレールの詩なんかは文語で訳すと大迫力です。口語訳ではどうも様にならないような気がします。聖書も 同じですね。昔の文語訳の方がよほど格調高かったです。
余丁町散人 (2002.11.14)
--------
訳詩:『珊瑚集』籾山書店(大正二年版の復刻)
原詩:『荷風全集第九巻付録』岩波書店(1993年)
2002年11月12日火曜日
Le Monde : セーヌの橋の下には・・・
2002.11.12
ルモンド紙から今日は再びパリの話題。セーヌ川の底にはいろんなものが眠っているというお話し。その中に出てくる「カロース型馬車」についてちょっと調べてみました。訳注として書いておきます。
パリの水上警察が厳かに言明している、「セーヌ川の底には何でもある」と。毎年6百万もの人がこの川を利用していることを考えればそれほどびっくりすることでもない。さて、パリ市内に架かる36の橋の下には、いろんな落っこちたもの、捨てられたもの、忘れられたもので、一つの生態系が出来ているのだ。たとえば、セーヌ川は携帯電話機の一大墓地であるし、盗難品なら何でも見つかる場所でもあることも事実。毎年30近くの自動車の残骸が川上の方で見つかる。これは保険金詐欺に絡むものか、荒っぽい泥棒の仕業なのか、本当のところはなかなか分からないのである。
また、冬のセーヌ川(ほとんど摂氏10度の水温)への飛び込み自殺犠牲者は毎年30人にも上る。幸いなことに水上警察の救援隊に救助される人の数も、飛び込み以外も含めて、毎年80人に上る。
しかしセーヌ川の底は、何にもまして、限りなく多様で多彩なもので覆い尽くされている。鉄製の柵や古タイヤ、買い物車、スクーター、多量の建築残骸、さらにちょっと珍しいが、橋の建築や補修に携わった労働者が置き去りにした工具類など。定期的に50年以上も水に漬かっていた砲弾が発見される。第二次世界大戦の時のものだ。時としてエンドウ豆が見つかることもある。大きな川船が沈み、積み荷の豆が流されたのだ。でも一番突飛なものは、疑いもなく、フランス革命当時の時代のものとされた「カロース型馬車」(訳注参照)だろう。これはポン・ヌフ橋の近くの川底に横倒しとなっていた。
だからといってセーヌ川がすっかり汚染されていると言うことではない。観察によると、すっと見かけなかった多くの種類の魚の群れが再び見られるようになっている。だから、セーヌの河岸で釣り竿をのばす人たちは、いまやパーチ(スズキの一種)やウナギ、ナマズ、更にスズキなどの釣果を期待できるのである。鳥類も例外ではない。カモメ、ウ、白鳥やカモなど、日増しに多く川に来るようになっている。そういうことで、セーヌ川は、多くの秘密を隠しながら、その川面に於いてもまた川底に於いても、多くの人・物・動物に出会える場所なのである。
訳注 「カロッス型馬車」Carrosse
ルモンド紙から今日は再びパリの話題。セーヌ川の底にはいろんなものが眠っているというお話し。その中に出てくる「カロース型馬車」についてちょっと調べてみました。訳注として書いておきます。
Sous les ponts de la Seine...(2002.11.8)
セーヌの橋の下には・・・
「セーヌ川の底には、黄金がある、錆び付いた船がある、宝石がある、戦の武器がある。セーヌ川の底には、死体がある。セーヌ川の底には、涙がある」この「セーヌ川哀歌」という歌はモーリス・マグルの1934年の作詞。クルト・ヴェイルが音楽を付け、ミュージックホールの伝説的歌手リス・ゴーティーなどの多くの歌い手によって歌われてきた。でもこれは単なる詩にはとどまらないのだ。セーヌ川の底は、実際のところ、あらゆる種類の面白い、びっくりするような、そして時には怖いようなもので、いっぱいになっているのである。パリの水上警察が厳かに言明している、「セーヌ川の底には何でもある」と。毎年6百万もの人がこの川を利用していることを考えればそれほどびっくりすることでもない。さて、パリ市内に架かる36の橋の下には、いろんな落っこちたもの、捨てられたもの、忘れられたもので、一つの生態系が出来ているのだ。たとえば、セーヌ川は携帯電話機の一大墓地であるし、盗難品なら何でも見つかる場所でもあることも事実。毎年30近くの自動車の残骸が川上の方で見つかる。これは保険金詐欺に絡むものか、荒っぽい泥棒の仕業なのか、本当のところはなかなか分からないのである。
また、冬のセーヌ川(ほとんど摂氏10度の水温)への飛び込み自殺犠牲者は毎年30人にも上る。幸いなことに水上警察の救援隊に救助される人の数も、飛び込み以外も含めて、毎年80人に上る。
しかしセーヌ川の底は、何にもまして、限りなく多様で多彩なもので覆い尽くされている。鉄製の柵や古タイヤ、買い物車、スクーター、多量の建築残骸、さらにちょっと珍しいが、橋の建築や補修に携わった労働者が置き去りにした工具類など。定期的に50年以上も水に漬かっていた砲弾が発見される。第二次世界大戦の時のものだ。時としてエンドウ豆が見つかることもある。大きな川船が沈み、積み荷の豆が流されたのだ。でも一番突飛なものは、疑いもなく、フランス革命当時の時代のものとされた「カロース型馬車」(訳注参照)だろう。これはポン・ヌフ橋の近くの川底に横倒しとなっていた。
だからといってセーヌ川がすっかり汚染されていると言うことではない。観察によると、すっと見かけなかった多くの種類の魚の群れが再び見られるようになっている。だから、セーヌの河岸で釣り竿をのばす人たちは、いまやパーチ(スズキの一種)やウナギ、ナマズ、更にスズキなどの釣果を期待できるのである。鳥類も例外ではない。カモメ、ウ、白鳥やカモなど、日増しに多く川に来るようになっている。そういうことで、セーヌ川は、多くの秘密を隠しながら、その川面に於いてもまた川底に於いても、多くの人・物・動物に出会える場所なのである。
Camille Le Gall
----------------------訳注 「カロッス型馬車」Carrosse
大型有蓋四輪馬車。ガラス窓がある。川と木製のバネによるサスペンション付。前輪が独立して方向転換できる。また鋼製のスプリングを使用する新型のカロッスは「ベルリーヌ」と呼ばれた。馬車はとても高価であり、いまのお金にして一台3000万円ぐらいしたそうだ。ベルリーヌを軽快にするため半分に切った形にしたものを「切る」の意味から「クーペ」と呼ばれた。いまの感覚で言えば、カロッスはリンカーンコンチネンタル、ベルリーヌはメルセデス600,クーペはさしずめポルシェにあたるのか。当時の人は馬車に乗ることが(またどの型の馬車に乗るのかというのが)ステータスシンボルとして絶対必要で、非常に拘り、所有を渇望したらしい。参考書:鹿島茂『馬車が買いたい!』 |
2002年11月3日日曜日
秋のお便り
秋のお便り
..................
余丁町散人
..................
余丁町散人
あっという間に秋が終わりかけています。「夏のお便り」を書いたのはついこの間のような気がしますが、時間が経つのは早いものです(歳をとったのかな)。最近はいい天気が続きます。新宿御苑恒例の菊花壇展を覗いてきました。右の写真は新宿御苑ならではの「大作り花壇」。まだちょっと早かったですが、来週あたりにちょうどよくなると思います。嵯峨菊、大菊などはとても楽しめました。60代の上品な見物客が多く、展覧会となるといつも大挙して押し寄せるおばさん連中が居なかったことも、とてもよかった。
新宿御苑 菊花壇
うちの庭
山茶花が芽をふくらませてきました。まだほとんどが青くて固い芽ですが、一つだけ小さな蕾を色づかせてきました。左の写真です。散人が夏前にやった「自然流」剪定が功を奏したか、今年は芽の数が多い。冬の間が楽しみです。カキ、シャクナゲについては「にわか隠居の庭仕事」でご紹介の通りです(下のリンク)。
日本経済ですが、デフレが続いています。デフレが続く限り企業は儲からない。企業が儲からない限り株価は戻さない。もう諦めました。最低十年は「塩漬け」にするつもり。長期債も償還が危ないし、結局頼りになるのは手持ちの現金だけ。現金が王様の時代です。それを前提にアグレッシブにライフスタイルを質実生活に転換しました。けしからぬ輩を儲けさせる消費は一切拒否するという前向きの倹約生活です。
不思議なものでこんな質実生活をしばらく続けると今までのいい加減な消費生活が逆に心の貧しいものに見えてくるから面白い。かりに株が上がってももう決して昔のライフスタイルには戻ることはないでしょう。こういう風に感じている人は散人ばかりじゃないと思うし、デフレは当分続きますね。
東京街歩き
***
観光地としての東京
東京街歩き
***
観光地としての東京
海外旅行より費用が掛かりどこに行っても画一的な国内旅行には出かける気分にはなかなかなれません。逆に面白さを発見したのが「東京観光」。歩いて出かけられるし、これだけ興味深い材料の揃っているところは世界でも少ないのじゃないでしょうか。街を歩く人間を観察するだけでも楽しい。
最近発見したのが家から歩いてすぐの荒木町界隈。何十年も新宿に住んでいるのですが、荒木町のど真ん中に大きな窪地があり、そこに江戸時代からの池が残っていたとは知りませんでした。街全体がいわゆる「ネコ道」という細い迷路となっており、さながらカスバの雰囲気。東京に残された秘境が目と鼻の先にあったのです。
下の写真はその池。スッポンが一匹住んでいます。
登録:
投稿 (Atom)